新チーム誕生から県代表へ <1>
強い岩商、県体へ
【時事日本】 昭和55年(1980年)8月6日(水曜日)
一日午後二時半、高校野球のメッカ・徳山市野球場は湧きに湧いた。甲子園の出場をかけた岩国商対萩商の決勝戦は、岩国の一点リードで迎えた九回表萩の攻撃、二死ながら二塁、一打同点のチャンスを迎えた。ワッショイ、ワッショイ、一塁側の萩商も、三塁側の岩国商応援団も懸命の声援、スコアボードをふり向いた森本はセットポジション、投げた。シュートの球がインコースに入った。と、代打山村のバットが鳴った。球はレフト左の小飛球、左翼の井上が懸命に走る。構えた。スッポリ白球がグラブにおさまった。この瞬間、岩国商の甲子園出場が決まった「やった、勝った」。グランドもスタンドも歓喜に湧いた。川村監督の笑顔をのせたシャープな体が宙に舞った。
岩商の新チームが初めて挑戦を試みた相手は岩陽。まだチームが出来たばかりのフレッシュナイン。それだけに6-0の楽勝だった。昨年の八月一日のことである。
「このチームなら何とかやれると思いました」川村監督のノックにも一段と力が入った。 投手が平田と森本、捕手が上田、一塁大上、二塁小田、三塁石本、遊撃村上、左翼山本(正)、中堅原田、右翼山本(弘)、補欠は井上、田中、柳井、小宮、大井、村本といった顔ぶれ。
十日には強豪多々良と対戦5-4、4-1で勝ち、十二日には名門・柳井を11-0の大差で破った。
十九日には高水に7-2、2-2で一勝一分、二十日は正強に1-0、二十一日には徳山高を7-0、二十二日は萩商を6-0、二十四日は岩陽5-1、二十六日は廿日市を3-1でそれぞれ破った。
このころから早くも「岩商強し」の声が聞かれるようになった。それも無理はない。八月に入って二十六日間の成績が十勝一分というすばらしいダッシュだったからである。
快進撃はその後も続いた。八月三十、三十一日の両日、岩国市民球場で行われた秋季周東大会では、岩陽に6-3と苦戦したものの、柳商を5-1、高水を9-0で降して周東地区の雄にノシあがった。
新チームにとって、この周東大会が初めての公式戦だったが、この圧倒的な勝利によって〝負けない〟自信がついたという。
九月に入ってからも〝強い岩商〟はとどまることを知らなかった。
二日、桜ヶ丘を2-1で、光を3-0でそれぞれ破り、八日には南陽工に7-2、九日は下松工に2-0、十六日は宇部工に3-1で勝った。宇部とは1-1、防府商とは0-0でそれぞれ分けたが、二十三日には姉妹校の岩国工を4-0で破っている。
こうして近郊のチームを総ナメにしたところで二十四日には、中国地方の名門校・浜田高と崇徳を招き、決戦を挑んだ。
守りを主体にした〝岩商野球〟がどこまで強豪に通用するかという点で、関係者はこの試合を注目した。結果は崇徳にこそ1-1で分けたものの、浜田高には6-1で快勝した。
「よし、これならいける」川村監督はそうつぶやいた。この破竹の進撃の原動力は、投手・平田の活躍だった。上から投げおろす快速球は、ときおりまぜる大きな緩いカーブと共に打者をキリキリ舞いさせた。ノーヒット・ノーランを二試合も樹立したのである。森本の精密機械のようなコントロールに加えて、平田の豪速球という二本柱があったからだ。
「高校野球はまず投手力ですね。森本、平田という二つの柱が出来たということが何といっても強みでした。もちろん、守備も大切です。ミスのない、エラーのない試合をすることによって勝ちにつながるということを選手に口うるさくいってきました。いいかえれば基本に忠実にということでしょうか」
ゆっくり、かみしめるような口調で川村監督はいう。
こうして〝強い岩商〟は十月六日からの秋季県体予選を迎えたのである。
つづく
新チーム誕生から県代表へ <2>
晴れの中国大会へ
【時事日本】 昭和55年(1980年)8月7日(木曜日)
去年の秋の県体予選は、岩国市民球場で行われた。岩商は第一戦で苦手の岩国高と対戦した。
ここ数年、岩商はどうしても岩国高に勝てなかった。ウマイ野球を身上とする岩国に粗い岩商野球は通用しなかったのである。だから第一戦で岩国との対戦を知ったときナインの顔は一瞬ゆがんだ。だが「オレたちは負けないぞ」とつぎの瞬間、彼らは元気に立ち上がった。
初盤で早くも岩国は一点を先取したが、岩商は岡村の緩いカーブにバットが合わず、どうしても返えせない。岩商ベンチにもようやくあせりの色が見え始めた九回最後の攻撃で、長短打を集中、一挙九点をあげ、その裏の岩国の攻撃を一点におさえて9-2で快勝した。
「こんな野球は経験したことがない」と岩高の森山監督にいわせたほど、その攻撃はすばらしいものだった。
この大会で、岩商は熊毛北を10-0、久賀を6-0で破り、十三日から徳山市野球場で行われた県決勝大会に駒を進めた。
決勝大会でも岩商の快進撃は続いた。
豊浦を9-2、多々良を4-0でくだし、決勝では山口鴻城を1-0で破り、晴れの中国大会に出場することになる。
このときの模様を十月十六日付の「時事日本」はつぎの通り報じている。
期待通り岩国商が県高校野球界№1になった。しかも十一月二日から三日間、米子市で開かれる中国大会での成績いかんでは、明春のセンバツへの道が正夢になりそうだ。
さきの周東大会で優勝、こんどの岩柳地区予選でも一回戦の岩高戦にこそ苦戦したがあとは、平田、森本両投手の好投と切れ目のない打線で危なげなく勝ち進み、十三日から始まった決勝大会でも、今夏の甲子園出場校豊浦に9-2の七回コールドゲームで勝ち、準決勝では、多々良を4-0で、決勝戦では山口鴻城を1-0でそれぞれ破った。
優勝旗を手にした上田主将は「チームワークの勝利です。これからもがんばります」と語り、川村監督は「練習の成果だと思います。選手がよく私について来てくれました」とのべた。
一部既報の通り、同校チームは、さる八月の新チーム結成いらい、非公式試合をふくめて、すでに三三試合を戦ったが無敗、そのズバ抜けた力は大会前から高く評価されていたが、ウワサどおりの実力を出し、快進撃を続けてきた。
当然、中国大会で一勝か二勝すれば、センバツへの出場となるが、それだけにさらに一層の精進を地元民は期待している。
投手力は、エースの平田と控えの森本がともに好調なので相手打線が三点をとることは困難。したがって四点以上打線がとれば中国大会でも充分活躍が期待できる。
その打線だが、トップの村上の出塁率が極めて高く、これを二番の井上が送って、三番原田、四番山本、五番森本(大上)、六番上田の一発で決める得点パターンは、予選から決勝を通じて何度も実っているし、その確率は高いだけに三点から四点の得点はそうむづかしいものではなさそう。
守備も試合数を重ねるにしたがって堅実になり、ノーエラーの試合も珍しくない。
下位の石本、小田もよくがんばっているので期待できそうだ-。
つづく
新チーム誕生から県代表へ <3>
延長18回、惜敗に
【時事日本】 昭和55年(1980年)8月8日(金曜日)
米子で開かれた昨年の中国大会には、広島から広陵、岡山から理大附高、島根から松江商、鳥取から倉吉北などの強豪が参加、山口県からは岩国商と山口鴻城が出場した。
岩国商は倉吉北と対戦、センバツをかけて熱戦を展開した。
試合は岩商のペース、エース平田も快速球をビシビシ決めて倉吉を圧倒した。8回を終わって4-1で岩商がリード誰もが楽勝を感じていた。ところが野球は終わってみなくてはわからない。9回、勝ちを意識してか、平田の球が真ん中に集まったところを倉吉の打線が捕え、1、3塁の好機をつかんだ。ワッショイワッショイの声援に動揺した平田の3塁牽制球は、ベースの上をオーバーして外野の壁に転々、3塁ランナーは小躍りしてホームインした。つづく左中間に上がったフライは決していい当りではなかったふらふらっと詰った。普通の状態なら難なく捕球できるものだったが、もう秋の陽はトップリ暮れて白球がどこに上がったかわからない。中堅の原田と左翼の井上が懸命に追ったがどうにもならなかった。パシッ、鈍い音をたてて球は外野の芝生に落ちていった。
「ワアッ」大歓声のなか、倉吉の二走者が相ついでホームイン、4-4。ついに日没引き分けとなった。
「とても試合が出来るような状態ではなかった。あれでは選手が可哀想だ」岩商の関係者は口々にそういったが、選手たちは「あす、がんばるぞ」そう誓い合って宿舎にひきあげた。
翌日、再試合が行われた。岩商・森本、倉吉・坂本両投手の見事な投げ合いは、両軍野手の好守備もあって延々18回に達した。そして、その裏、疲れの出た森本投手は倉吉に連続の3長短打を浴び2点を失った。ついに軍配は倉吉にあがったのである。だが高野連の関係者は口々に、岩商の〝全員野球〟のすばらしさを讃え、高校生らしいさわやかな態度に拍手をおくった。
「もう一度、岩商とやったら恐らく負けるだろう」倉吉の関係者さえ、そう語ったのである。 戦いに敗れ、重い足どりで新岩国駅についた岩商ナインの表情はさすがに暗かった。1勝の重みをこのときほど肌に感じたことはない。そのナインのうなだれた頭上に川村監督のサビのある声が飛んだ。「悔しいか、悔しけりゃ勝つんだ」くやし涙をこらえながらナインは大きくうなずいた。(よし、がんばろう。甲子園はボクたちの手でつかみとろう)新岩国駅の階段を降りながら心に誓い合った。 ◇ ◇
こうして高校野球もシーズンオフに入ったが、倉吉に敗れたとはいえ、岩商ナインに悔はなかった。
新チーム結成以来、3ヶ月の成績がなんと26勝5分1敗と見事な結果をみせたからである。 このころからスポーツ紙の間で〝強い岩商〟の記事が見られるようになった。その中でも平田・森本両投手のズバ抜けた成績が話題となったが一方では、切り込み隊長村上内野手の好守好打、上田捕手の強肩強打、山本外野手、大上内野手の豪打、原田、井上両外野手の俊足巧打、石本、小田内野手の堅守と巧打が活字を賑わすようになった。「岩商、甲子園か」の声が出始めたのもこのころである。
今年に入ってから間もなくセンバツの名が岩商の周辺でささやかれるようになってきた。実力からみて当然のことでもあった。
つづく
新チーム誕生から県代表へ <4>
春の県体は惜敗
【時事日本】 昭和55年(1980年)8月9日(土曜日)
3月も終わりに近づくと各地で球信が聞かれ始め、岩国商も、26日から神戸遠征に出発した。 第1戦は報徳学園、全国に知られた打撃のチームだけに猛打が爆発11-3で大敗した。エラーも続出、いいところは一つもない緒戦だっただけにさすがの川村監督もガッカリ「どうなっているのかと反問したくなったよ」という。
だが、第2戦の尼崎西戦からは地力を発揮、同校を1-0、武庫荘を7-5、市尼崎を7-6で一蹴、さいさきよいスタートを切った。
31日の春の周東大会では、柳井と0-0で分け、4月4日には萩の招待野球に出発した。 地力をつけた萩商とは1-1で分け、浜田高には2-1で勝った。
19日には、久賀を8-0で、20日には瀬戸内を2-1でそれぞれ破った。
26日からは、岩国市民球場で、春の県体予選が行われ、岩陽を7-0、熊毛北を11-0、岩国を5-3でくだし、依然として快進撃を続けた。
このころから大上内野手がグングン頭角をあらわし、リストのきいた力強いバッティングで4番の座を確保した。
このため、山本(弘)が3番、5番の上田をはさんで、原田が6番を打つという、厚みを増した打線が出来上がった。
だが、同チームにとって思いもかけぬ不幸が舞いこんだエースの平田がベンチの近くで足を踏みはずし、ヒザを痛めたのである。
だから5月4日からの県体決勝大会は、森本と2年生の小宮が守った。下関商を2-0、山口を7-0でくだし、決勝でも山口鴻城を8回まで2-1でリード、そのまま逃げ切るかに見えた9回表、鴻城に思いもかけぬ3ランが飛び出し、4-2で敗戦に泣いた。
「シュートが真ん中高めに入った」と森本は悔んだが、そのときふと、中国大会での倉吉戦が頭に浮かんだ。連投からくる疲れが出たのかも知れない。
11日には広工大附高と対戦、8-6でくだし、注目の広島県との対県親善試合で広陵と対戦した。31日岩国市民球場のことである。
広陵は、今春のセンバツ大会でベスト4に残った強豪、しかも主戦の渡辺が投げるとあって、さすがの岩商ナインも緊張したが、エース森本は堂々とわたり合い、1-1で引き分けた。打撃も守備も全く互角、〝岩商野球〟が全国レベルに近づいていることを示したといえよう。
6月1日には、広島県のベスト4の一角・近大福山と2試合行ったが、2-1、3-1でいずれも勝ち「岩商はすばらしいチームだ」と近大福山の監督の称讃を浴びた。
9日には柳井で会長旗の予選があった。
「カーブ、シュートを投げず、ストレート一本でいけ」川村監督にそういわれた森本は、いわれる通り、直球だけで柳井商と対戦、2本塁打を浴びて3-5で、珍しい敗戦となったが、「会長旗は落とそう」といった気持ちがあっただけにナインのショックは見られなかった。
だが、12日の広島の県体優勝校、広島工に1-6で破れたときは、小宮が投げたということを割りびいても痛い敗戦だったが、15日には強豪崇徳に4-4、4-2で1勝1分の好成績をみせたことで関係者をホッとさせた。
つづく
新チーム誕生から県代表へ <5>
注目の市内大会
【時事日本】 昭和55年(1980年)8月11日(月曜日)
6月22日には市民球場で市内大会が開かれた。春からどう調整されてきたかをみる意味で高野連関係者の注目を集めた。
この大会に先だち矢口象吾県高野連副理事長は「岩国商が必ずしも有利とはいえない高水にも岩高にも工業にも優勝のチャンスがある。それがそのまま夏の大会の縮図ともいえよう」という意味の展望をしている。
どの学校も3月から夏へ向けて猛練習を続けてきた。だから昨秋や春の大会の成績は参考にはなるが、すべてではない-というのであり、いいかえると商業と高水、あるいは岩高、工業などの差は殆どなくなったということだった。
この記事が本紙で報道されると、岩商のOBから抗議が届いた。
「机の上の概念で、展望を試みるのは無責任ではないか商業と他の四校との間にはかなりの距離のあることを知らないのか」というのである。しかも、そのOBは「ウソだと思うなら今度の市内大会の結果をみるがよいだろう」とまでつけ加えた。
こうしたハプニングもあって市内大会は、例年以上に客足を呼び、盛んな声援が飛んだ。
岩商は予想通りの強さをみせ、岩陽に5-0、工業に1-0、決勝戦で高水を4-2で破って優勝した。スコアこそ接近していたが、試合内容は堂々たるもので、やはり県下では、最右翼にあげられるだけの実力を市民の前に披露した。
しかも、高水戦の最終回、平田投手が3ヶ月ぶりにマウンドに立ち、快速球を投げこんで、市民のざわめきを呼んだ。
夏の大会がチラリチラリ選手の頭にのぞき始めた28日、瀬戸内高校と一戦を交えた。同校は広島のベスト8の力を持っており、バッティングのよいチームである。
当日は折悪しく、試合の途中から雨が降り出したが、ナインはよく戦い、3-1でくだした。 翌29日には大阪の招待野球が開かれた。
北陽、尼崎西、上宮、桜宮など、高水準の近畿地区でもベスト4の実力を持っているチームが集まり、壮観だったが、この日も大阪地方は朝から雨が降り続いた。せっかく遠方から来たのだからということで、岩商-桜宮戦は雨の中を強行された。
常識では考えられないような雨中の決戦となったが、岩商は初回の大上のホームランなどで4点をあげ、4-3で勝ちを拾った。
できることならコンディションのよいときに、近畿勢の実力校と試合をすることが関係者の希望だったが、もう〝夏〟も間近に迫り、それもできない。
決して満足のいくものではなかったが、それでも勝ち試合だっただけに帰りの新幹線は賑やかだった。
「桜宮のピッチャーは球も速く、近郊に知られた好投手であり、打線もいい。それに打ち勝ったのだから…」
「これで一応のメドはついた。県大会での優勝は間違いなし…」
「森本が安定しているし、小宮もよくなった。平田も2、3回から投げれる。打線も1番から9番まで切れ目がない。夏は必ずやってくれる」
もう県大会で優勝したような賑やかさだった。
つづく
新チーム誕生から県代表へ <6>
感動の祝勝会場
【時事日本】 昭和55年(1980年)8月12日(火曜日)
7月に入ると部員たちは東洋紡での合宿に入った。最後の調整のためである。
野球はいつまでもチームプレー。九人が一つになって始めて勝利につながるものだがそのためには合宿がきわめて効果的とあって、同校では定期的に合宿を行っている。
合宿の途中の13日、ナインは広商と最後の試合に出かけた。
だが、選手の足どりは重かった。平田のヒザの故障が思うように治らず、石本が胸の筋肉を痛めている上に、攻守の要である村上が内臓疾患で倒れたからである。
1人のレギュラーが欠けても思うような試合が出来ないのに、村上が欠場となるとそのアナは大きい。
果せるかな、遊撃は急造の小田が守ったが、思うような打球の処理が出来ない、ついに10-5で敗れてしまった。とはいっても、川村監督もナインも、その敗戦によるショックはなかった。
こうして岩商は、新チーム結成以来の戦いを、練習試合も含めて、61戦46勝9分6敗の見事な戦績で終え、21日からの夏の大会予選へ駒を進めたのである。 ◇ ◇
岩商野球部の誇りは、いまの3年生部員21人が1人の退部者もなく、川村監督にピッタリついてきたことである。
「野球はレギュラーだけがやるのじゃない。補欠も、グランドに出ない部員も含めて、みんなの総合力でやるスポーツだ」と中村部長のいう〝全員野球〟が、3年目に花を開いたのである。
中村部長も川村監督もこの3年間、1日の休みもなかった。もっとも1月から2月いっぱいのオフシーズンを別にして、日曜、祝日のすべてを部員たちとグランドに汗した。「仕方がありません。ボクの仕事なんですから…」と川村監督は笑う。夫人や子供へのサービスをすべて返上しての毎日であった。
それだけに、甲子園出場が決まったときは、「涙が出るほど嬉しかった」という。
さすがに冷静な中村部長も川村監督も嬉しそう。それも昨年秋の中国大会での悔しい敗戦があっただけにひとしおなのだ。
グランドでの指導は、部長も監督もきびしい。
「こらっ、へたくそ」
「それでもレギュラーか」
ノックと雨と共に叱声が飛ぶ。
「オース」
直立不動の姿勢で帽子を脱ぎ、大声で答える選手たちの表情はさわやか。
「今日の日を一番喜んでくれたのは部長と監督だろう」
簡単な優勝祝賀会の席上、OBと父兄は、口を揃えて両氏を讃えた。
だが、準備などのために最後に祝賀会場の入ってきた川村監督は、「甲子園に行けるようになったのは、皆さんのおかげですが、とくにご父兄にはこの3年間、本当によく協力していただきました。もし、優勝の功労者をあげろとおっしゃるなら、私はまず第一に父兄をあげたい」と目に光るものを浮べながら深々と頭をさげた。割れるような拍手が起った。
勝ったおごりもなく、その功を他に向ける川村監督のスポーツマンらしい、さわやかな態度が、会場の感動を呼んだのである。
「よし、これなら甲子園でも必ず勝てる」関係者は口々にそう叫び、部長と監督を心から讃えた
つづく
新チーム誕生から県代表へ <完>
いま甲子園の土を
【時事日本】 昭和55年(1980年)8月13日(水曜日)
それにしても九分九厘決まった-といわれた春のセンバツ出場が流れたとき、さすがのナインもガックリ肩を落とした。
新聞も雑誌も、高野連の一部でも「岩商有力」だっただけに、その気持ちは痛々しい程だった。
中には部屋に入ったまま数日、出て来ないナインもいた。父兄会も臨時会を開いたほどである
「そっと温かく包んで、夏への激励をしてやろう」
自失状態に近い子供たちを父兄たちは、やさしくいたわった。
「あんた達は実力はあるんだから〝夏〟へ的をしぼってしっかりがんばってくれ」
それは親の願いでもあったが、甲子園への道がどんなに遠くきびしいものであるかを親たちはよく知っていた。
かつて先輩たちが、他校の秀れた選手たちが、何度も挑みながら望みを断たれている。
「宝くじをひき当てるよりむづかしいことかも知れないが、努力のつみ重ねによって可能性が出てくるものだ」
「幸い、キミたちは素質がある。しっかりがんばってくれ」
それぞれ、わが子にさとす親の目にも、希望の輝きが見えたものであった。
春の県体も終わり、練習試合も好成績をおさめた六月末〝夏〟に備えての父兄会が開かれた。 野球部の八百谷顧問は「やることはすべてやった。もうあとは〝夏〟の開幕を待つだけであるが、ここまで来れたのは、昨年秋の中国大会での悔しい敗戦があったからだ。よし夏には必ず返してやる-という選手たちの気持が実ったものだと思う」とのべ
中村部長は「あとは気力だけ、選手たちはまた昨年とは一段とたくましくなってくれた」と語り
川村監督は「みんなよくついてきてくれた。一人の落伍者もなく夏の大会を迎えたことが何としても嬉しい。選手たちの実力は、もう県下にはコワイものはいなくなった。これから抽せんが行われるが、どこと当っても立派な試合が出来ると思う」と自信をのぞかせた。
それでも父兄たちには一抹の不安があった。考えまいと思っても、あの昨秋の中国大会の倉吉戦が脳裡によみがえってくる。
第一戦、4-1で八回まで倉吉を圧倒、楽勝と思われながら九回表に暴投と二長短打で三点を奪われ同点となり日没再試合、翌日の試合でも十七回まで0-0の好試合をつづけながら「再々試合」の声がささやかれ始めた十八回、ついに森本が集中打を浴びてガックリ肩を落としながら米子をあとにした辛い思い出がきのうのことのように父兄たちの胸をしめつけるのであった。
「夏の大会では、ぜひがんばって貰いたい」
選手たちと共に、〝球児の母〟は、朝五時に起き、夜はいっしょに遅い夕食をとり、ときには厳しく、ときにはやさしく子供たちを包んだ。 ◇ ◇
川村監督が約束した通り岩商は、山口地方大会では文字通り〝敵なし〟の快進撃を続け、中村部長が公約通りの甲子園の土をいま踏んだ。
開会式では、十四番目に堂々、胸をはって入場、五日目の十二日、岐阜県代表の美濃加茂高と対戦した。甲子園の銀さんも岩商の進撃を予想するかのように高く、夏の陽に映えていた。
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